命のほのほ在りて
詠まむとす
今日は、1945年3月10日の下町大空襲の日です。
すでにアメリカ軍は、都市の中で、住宅が密集し人口密度が高い市街地を、焼夷地区1号に指定していました。
東京は当時の深川区の北部と本所区・浅草区・日本橋区の大部分などが焼夷地区1号でした。
そこをまず焼夷弾で焼き払う絨毯爆撃が、この日から始まりました。
焼夷地区1号の目標地域には、軍施設や軍需工場などの明確な軍事目標はほとんどなく、アメリカ軍の目標となった大きな軍需工場は精工舎や大日本機械業平工場のみで、築地、神田、江東などの市場、東京、上野、両国の駅、総武線隅田川鉄橋などが実際の目標でした。
住民を殺戮し、それによって戦争継続の意思をそぐことが、主な目的でした。
また、市街地を焼き払うことで、そこにある小さな軍需工場を焼くことも合わせてねらっていました。アメリカ軍は春一番のような大風の吹く3月に焼き払い空襲を開始することを目指して、日本向けの油脂焼夷弾を開発し、B29とともに大量生産をしていきました。
3月10日の下町大空襲は夜間に低高度から1665トンに上る大量の焼夷弾を投下した空襲でした。
目標地域に4か所の爆撃照準点を設定し、そこにまず大型の50キロ焼夷弾を投下しました。
これにより、大火災を起こし、日本側の消火活動をまひさせ、その後小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たしました。
火災は北風や西風の強風もあって、火災は目標地域をこえて、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くしました。
罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人でした。
木造家屋の密集地に大量の焼夷弾が投下され、おりからの強風で、大火災となったこと、国民学校の鉄筋校舎、地下室、公園などの避難所も火災に襲われたこと、川が縦横にあって、安全な避難場所に逃げられなかったこと、空襲警報が遅れ、警報より先に空襲が始まり、奇襲となったこと、踏みとどまって消火しろとの指導が徹底されて、火たたき、バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことができないで、逃げおくれたことなどの要因が重なり、焼死、窒息死、水死、凍死など、9万5000人を超える方が亡くなりました。
ヒロシマ・ナガサキ・オキナワそしてトウキョウが第二次世界大戦の、地獄を経験した地域でした。
ぼくたちは、被爆国であり、そして国土で戦争があった国です。
ウクライナそしてガザなど、世界にはいまだに戦争が繰り広げられている国があります。
そこでは、子どもたちが犠牲になり社会的弱者が辛酸を舐めて苦しんでいます。
阿鼻叫喚の地獄絵図。
もう二度と繰り返してはならないと云うのに、世界では繰り返されています。
こうした世界への発信力を増して、恒久的平和を訴えなければなりません。
終戦後の日本の姿。
大空襲の後の国土の悲惨。
もっともっと声を大きくして、平和を訴えていきましょう。
井戸端会議でも、良いんです。
機会を捉えて、非戦を話してまいりましょう。
3.10に祈らむ
非戦てふ抗う力浅き春
荒 野人