ひびきあふ

自然の音と響き合ふ

カテゴリ: 季節の花

野に在りて詠まむ
命のほのほ在りて
詠まむとす

ぼくは石楠花の系列の中にいる。
そう自負している、のである。
石楠花の正統を継ぐのは、自分だと確信しているのである。
俳句即人生。
そう教えていただいた。

多くの先達が、綺羅星のように名を連ねている。
眩しいばかり、である。
石楠花が咲く頃、ぼくは必ず臼田亜浪翁の郭公の句を思い出す。
 郭公やどこまでゆかば人とあわむ    臼田亜浪
深い森に分け入るとき、臼田亜浪翁を頭に浮かべる。
或いはまた、疎林と云うべき林に入り込んだ時も同様である。

自然の中に身を置くとき、ぼくは句を詠むことができる。
森羅万象に、常に身を置きたい。
曼荼羅の一部ともなって、身を滅ぼすのならそれも人生。

俳句即人生。
その真理は、その生きざまなのかもしれない。


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  石楠花やどこまでゆかば満たさるる

               荒 野人

野に在りて詠まむ
命のほのほ在りて
詠まむとす

木通と郁子の花は、全く違う。
実が割れないどころか、花もこれほど違う。
あけびとむべ、の花である。

これは木通の花。
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これは郁子の花。
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以前、黒みが強い木通の花を紹介した事があった。
今回の木通の花は、白味が勝っている。
一般的には、この色合いが木通の花である。
実は、木通は割れず郁子は割れない。
中の実は、ほぼ同じ感じである。
味わいも同じである。


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  花木通似ても似つかぬ郁子の花

             荒 野人

野に在りて詠まむ
命のほのほ在りて
詠まむとす

月桂樹の花、である。
葉は、よく乾燥させて香草として料理に使われる。
我が家では、必ずカレーに二葉入れて煮込む。
香りが芳しく且つ、甚くカレーの風味を引き立てるのである。
その使い方を知っている友が、葉を乾燥させて送ってくれたものだ。
その友も、いまは亡くなって久しい。
従って、カルディで購入しているのである。
カレーに入れないと、なんとなく寂しいのである。
所謂、ローリエである。

月桂樹の花には、初めて出会った。
この年まで生きてきて、初めてと云うのも不思議なのだけれど。
これは本当、だ。

出会った時、えも云えないような感覚があった。
初めましてでもなく、こんにちはでもない。

だがしかし、ローリエには「栄光」「勝利」「栄誉」といった花言葉があてられている。
マラソンの勝者に冠として、与えられるのはその花言葉からである。


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 アポロンに捧げよ月桂樹の花

           荒 野人

野に在りて詠まむ
命のほのほ在りて
詠まむとす

八重桜の候へと移ろう。
市井は、桜の花で持ち切りである。
そうでなくてはならないのかもしれぬ。

桜を楽しむ日本人の美学が、来日外国人に理解できるのだろうか。
旅行に来た外国人も、桜を愉しむ。
日本人は、一過性ではなく毎年愉しむ。
単年であろうと、毎年であろうとどちらでも良い。
桜は、理由の如何を問わず愉しめばよいのだ。
桜を愛でる気持ちには、理屈は要らないし忖度する必要とて無い。

桜は、愉しめばよい。
ひたすら愉しめばよい。
それこそが、美学である。
感性の違いは、問わない。
そんなもの、無用の長物である。
だがしかし、耽美主義と云うイズムはなかなかに難しい。

そもそも、祝い事に出てくる「桜茶」は、この八重桜の蕾の塩漬けである。
春が深まり、もちろん黄砂にも悩むけれど夏隣の走りと云うべき花である。


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 生涯を一輪に秘め八重桜

         荒 野人

野に在りて詠まむ
命のほのほ在りて
詠まむとす

個性的な花、である。
見ていて飽きることが無い。
アーモンドの花、である。

なかなか見かけない花である。
旧約聖書にも登場する花、だ。
神聖であって、日本の梅や桜にも似ていると云われるのだが・・・。
はてさて、如何なものか。
カリフォルニアのアーモンド畑の開花時期が、夙に有名である。

年老いて、アーモンドをカリッと噛み下す能力は失ってしまった。
あの感触が良いのに、である。
残念だけれど、やむを得ない。
今では口に含んで、奥歯でそっと噛み下す。
それでも、乾燥した味わいが口中に広がる。
木の実とは、誠に心優しい食べ物である。
そうそう、縄文の人々もその感触を楽しんだのかもしれない。


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 研ぎ澄ます五感の全てアーモンドの花

               荒 野人

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